教員の方はもちろんのこと小学生や中学生の子供をもつ保護者の方も「道徳の教科化」という言葉を聞いたことがあると思います。「道徳の教科化」とは、従来「教科外の活動」であった道徳を「特別の教科」に格上げすることを意味します。では、道徳が「特別の教科」に格上げされると何が起こるのでしょうか?主な変化は以下の2点です。
第一に、道徳の授業で文部科学省の検定が必須の「教科書」が用いられるようになること。第二に「評価」が行われるようになることだ。
出典:
道徳は、2018年度からは小学校で、2019年度からは中学校で、教科化されました。教科化されたことにより道徳が世間から従来よりも注目されるようになっているように思います。
今回は、そんな道徳教育の在り方について考えていきたいと思います。
想定している読者の方は、
- 子供が学校で受けている道徳の授業に関して疑問を感じている保護者の方
- 自身が行っている道徳の授業に違和感を感じている教員の方
です。
今回の記事は、道徳が教科化される数年前に、私が大学の教職課程で学んだことを中心に書いています。そのため、現在の道徳教育の現状と若干相違があるかもしれないことをご了承いただければ幸いです。なお、この記事では、2000年以降の時期を最近と定義しています。
最近の道徳教育の実情についての意見
道徳教育という概念は非常に幅の広い概念です。そのため、それを少し区分して考察した方がより的を射た考察ができるように思われます。
そこで、道徳教育をまず家庭におけるそれと学校におけるそれとに大きく分類してみます。家庭における道徳教育は、家庭によって大きな差異があると思われるので、それには言及しません。学校における道徳教育は、さらに、道徳の授業において実施されるものと、道徳以外の教科や特別活動等を通して実施されるものに大別されるように思われます。道徳以外の教科や特別活動は多岐に渡るので、この記事では、道徳の授業中に実施される道徳教育に関してのみ言及します。この記事では、道徳教育の実情について見解を述べることを求められているので、そもそも学校の授業で道徳を教えられるのかといったような観点は議論せずに、道徳という授業が今後も学校で実施されるという前提で考察を進めていきます。道徳に関して私が興味を惹かれたテーマは2点あります。
文部科学省主導で作られた教科書・副教材の使用について
1点目のテーマは、「心のノート」の全国配布です。全国の小学校・中学校の大半が、「心のノート」という同一の教材を使用しているという現状について論じていきます。
心のノートの使用状況(少し古い調査です)
道徳が教科化された2018年度以降は、道徳の教科書を用いて授業を行っている学校が多いようです。
https://toyokeizai.net/articles/-/241317
ここでは、「道徳の教科書」や「心のノート」やという、特定の教科書や副教材を使うことに関しての良い点と悪い点を考えていきたいと思います。私が道徳について大学で学んだときはまだ道徳が教科化されていませんでしたの、「心のノート」を例として議論を進めていきたいと思います。
まずは良い点を2つ挙げます。
- 1点目は、道徳の授業で何を実施したら良いか分らなかった教師にある程度の指針を与えられるという点です。今までは教師側に道徳の授業内容に関する裁量がりましたが、生徒にとって有意義な授業が次々と生み出されてきたとは限りません。実際、和歌山県湯浅町立湯浅中学校長である御前充司先生は、「道徳の授業に多くの教師は、読み物資料集や副読本を読ませて、子どもたちに登場人物の気持ちを聞いて、最後に説話をして終わり、といったワンパターンの授業を繰り返してきました。」と述べています(朝日新聞)。この記事から教師が道徳の授業で何を行うべきかについて悩んでいたことが伺えるでしょう。
- 2点目は、全ての小学生・中学生が、教材という観点からいえば、同一の内容を学習できるという点です。もちろん、同一教材であっても、教師によって教え方は大きく異なるという点には考慮しなければなりません。しかしながら、教材が統一されることによって、各教師がもつ道徳という概念の生徒への押しつけという行為から生徒を守る可能性は高まるのではないでしょうか。
一方で、悪い点としても2つの点が挙げられます。
- 1点目は、道徳の授業が画一的になるという危惧です。この点は、政府が進めてきた道徳の教科化と関連すると思われます。教科化により、検定教科書を使用するようになれば、教師は教科書の内容を一通り行うことに注力するようになるため、結果として同じような授業が全国で実施されるようになる可能性が高いと思われます。
- 2点目は、「心のノート」などの全国で遍く使用される教材を通して、特定の人物もしくは勢力が、小学生・中学生の思想を操作できるようなる可能性があるということです。小森陽一は、「心のノート」の目的が「愛国心」の注入にあり、同時に「心のノート」は、極めて「文学」的な手法で、マインドコントロールをしようとしていると痛烈に批判しています。もし、多くの小学生・中学生がマインドコントロールされてしまうならば、自由に思想するという権利を妨げるという観点において、大きな問題でしょう。
それでは、小学生・中学生は、実際にマインドコントロールされているのでしょうか。ここからは、「心のノート」を使用した授業について考えていきます。私は「心のノート」を使用した授業を受けたことがないため、実際に「心のノート」による授業を受けた生徒としての意見を述べることはでききません。しかしながら、「心のノート」を使用した授業を受けたことのある方から話を聞くと、道徳の時間における「心のノート」を使用した授業は生徒の印象にほとんど残っていないことが推測されます。要因としては、生徒が「心のノート」の内容に興味を持てなかった、生徒がマインドコントロールを受けないように教師が指導方法を工夫した等、が考えられるでしょう。このことから、「心のノート」のような単一の教材を全国の小中学校に普及させることが必ずしもマインドコントロールに繋がるわけではないと言うことができるのではないでしょうか。
このように見てくると、同一教材を全国の小中学校に配布することは必ずしも悪いとは言い切れないかもしれません。上述したような同一教材を全国に配布することの利点と欠点の双方を鑑み、道徳の授業の半分程度の時間に関しては、全国共通の教材を扱い、残りの時間は地域性や生徒の実態を踏まえ地域もしくは学校独自で道徳の授業を組み立てるという形が良いように思われる。
道徳の授業で扱われる内容について
2点目のテーマは、道徳の授業で扱われる内容です。
まず、道徳の授業で扱う範囲が本来の道徳という言葉の意義から逸脱しているように思われます。広辞苑によると、道徳とは、
「人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的な強制力を伴うものではなく、個人の内面的な原理。」
と定義されています。
しかしながら、道徳の授業では、この定義との関係性が希薄な内容がかなり扱われています。例えば、「心のノート」(中学生)の18頁から22頁では、「元気ですかあなたの心とからだ」と題し、生活習慣等について生徒に考えさせています。生活習慣は善悪の判断と深い関係があるとは思えません。確かに、生活習慣の悪化により、心が健康でなくなり、結果として判断を誤る可能性があると言われれば、納得できないこともないでしょう。しかし、道徳というよりはむしろ家庭科で扱うべき内容のように思われます。また、「心のノート」(中学生)の108頁から111頁では、「考えよう働くということ」と題し、生徒に「働く」ということについて、学んだことや体験したことを書かせています。これは、道徳教育というよりはキャリア教育に近いように思われます。道徳の授業ではなく総合的な学習の時間で扱った方が適切な内容ではないでしょうか。
また、道徳の内容に関する議論が、道徳と愛国心との関係性、そして愛国心と戦争との関係性に関する議論に偏っているように思われます。このような議論が活発になる理由の1つとして、道徳は戦前の修身の代わりであり、かつ修身の授業では愛国心を涵養し、その愛国心が結果として国民を戦争に導いたという論理の影響があると考えられます。広辞苑によれば、修身は
「自分の行いを正し、身をおさめととのえること。旧制の学校の教科の一。天皇への忠誠心の涵養を軸に、孝行・従順・勤勉などの徳目を教育。」
と記されています。
言葉の意味という観点で比較すると、道徳と修身は異なる概念であることがわかります。修身を現代の学校教育に当てはめるならば、生活指導が最も近いでしょう。そのため、道徳が修身の代りであるという考え方は論理的ではないと思われます。
加えて、愛国心が即戦争に繋がるという論理も腑に落ちない点があります。加藤知子は、重光葵を例に挙げ、愛国心が直ちに軍国主義に向かうものではないことを論証しています(59-62)。このように、道徳の内容から修身そして愛国心ひいては戦争へと話をつなげていくことは、論理的に無理があるように思われます。
以上のことから、道徳の内容を議論する際には、愛国心や戦争への誘導についての議論に重きを置くのではなく、実社会を生き抜くために知っておくべき「ある社会における善悪の判断の基準となる規範」を生徒にどのように学習してもらうかについての議論を優先してもらいたいと考えています。
道徳教育の在り方に関する提案
道徳教育の在り方について論じる際に考慮すべき点として、目的、授業内容、評価の3つの観点で論じていきます。そこで、私が考える道徳教育に関して、まずその目的について考えた上で、次に内容及びその実施方法をまとめて述べていきます。
道徳教育の目的の再考
目的について考える前に、まず道徳という言葉の定義について考えてみます。上述したように、広辞苑によれば、道徳とは「行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体」であり「外面的な強制力を伴うものではない」ものです。ここで述べられている「行為の善悪を判断する基準としての規範の総体」を知ることは、生徒が自己実現を図る上で重要になると思われます。
例えば、社会に出て年長者と話す際に、敬語を適切に使用することができなければ、それだけで年長者から非常識とみなされる可能性があります。そして、年長者から支持を得られないことにより、自分が成し遂げたいことを成し遂げられなくなってしまうかもしれません。もちろん、年長者に対いて敬語を使用することが「善」で、そうでないことが「悪」であるという規範を、世界中の全員が支持することはないでしょう。日本という限られた地域の、ある特定の年代の人のみが是とする道徳かもしれません。しかし、その道徳を理解していることによって、彼ら彼女らから強い支持を得られ、また可愛がられる可能性は高いと考えられます。そのため、多くの生徒が今後も生活の拠点とする日本において、先人に支持されてきた規範を生徒が知っておくことは、生徒にとって有益であると思われます。一方で、そのような規範に沿って行動することを生徒に強制する必要はないと考えています。なぜなら、規範に従うか否かに関しては、基本的に個人の自由な選択に任されるものだと考えているからです。
中学校学習指導要領では、道徳の目標は、「第1章総則の第1の2に示すところにより、学校の教育活動全体を通して、道徳的な心情、判断力、実践意欲と態度などの道徳性を養うこと」となっています。また、道徳の内容には、「法や決まりの意義を理解し、遵守するとともに、自他の権利を重んじ義務を確実に果たして、社会の秩序と規律を高めるように努める」という点が含まれています。この点は、広辞苑で述べられていた「道徳とは法律のような外面的な強制力を伴うものではない」という定義とは異なっているものの、私は「法やきまりの意義を理解し、遵守する」という教育内容を道徳に入れることに賛成です。なぜなら、法律を理解しておかなければ生徒が社会にでてから逮捕されてしまう可能性がある一方で、このような内容を扱っている教科が他に存在しないからです。確かに、政治経済や現代社会で、法律について学ぶ機会はあるかもしれませんが、そこでは法律を知識として理解することはできても、法律に違反してはならない理由や法律に違反した場合に生じることについて考える機会を十分に持つことはできないでしょう。もちろん、法律は絶対的に正しいものではないので、ただ法律について生徒に理解させるだけでなく、法律を変えるという選択肢があることも伝えていく必要はあります。
これまで述べてきたことを踏まえ、道徳教育の目的は、「生徒が仕事及び私生活の双方において自身が願う人生を送るために必要となる法律や規範を理解し、それらに対して自分なりの意見を持つことができること。絶対に正しいという法律や規範は存在しないということを理解できること。」としたい。
道徳の授業の内容
前述した目的を踏まえ、法律に関することと規範に関することを区別して、具体的なテーマを設定して、生徒が法律と規範について考えていくという授業を私は望みます。
例えば、「いじめ」を題材に法律について考えていく場合、次のような具体的な状況を提示し、生徒に考える機会を提供します。「いじめられているA君の財布がなくなった。A君の財布を盗んだのはいじめグループの主犯格であるD君であることが分かった。」という状況を設定します。この状況の場合には、生徒に対して「D君の行為は正しい行為かな、それとも正しくない行為かな。」というような問いかけはしません。その代わりに、「このD君の行為は、いじめという曖昧な言葉で片付けることができる行為ではなく、明確な法律違反に該当する。どのような法律の第何条に該当するかを調べてみよう。」という形で問いかけ、D君の行為は刑法235条の窃盗罪に該当することを認識させます。
続いて、窃盗罪を犯すとどのような法定刑に処せられるのかも調べさせます。また、被害者やその家族がどのような思いをするかについても考えさせます。更に、なぜこの窃盗罪を犯してはならないかを考えさせます。窃盗罪を犯しても良いという意見を出す生徒がいた場合には、意見は意見として一端認め、その上で犯してはならない理由を説明する。仮に意見としては妥当であったとしても、教師としてこの法律を遵守すべきではないとは言えないからです。
同時に、生徒が心から既存の法律に納得できない場合には、将来、政治家という立場から法律を改正するという方法があることを伝えます。
同じ「いじめ」を題材に規範について考えるという状況を設定するとしたら、次のようになります。A君は5人の男子グル―プに所属していました。ある日突然、A君はグル―プの他のメンバーから無視されるようになりました。そのような状況を提示した上で、教師は生徒に対して「グル―プメンバ-の行為は、正しい行為だろうか、それとも良くない行為だろうか。」と問います。おそらく生徒は良くない行為と答えるでしょう。「集団で一人を無視するのは良くない」という規範を知っているからです。そこで、さらに情報を加えます。実はA君はインターネット上でグループメンバーの悪口を書いていました。そして、生徒にグループメンバーの行動の是非を再度問いかけます。この時点では、グループメンバーによるA君の無視という行為は必ずしも悪い行為とは言いきれないのではないだろうか。結果として、生徒は「集団で一人を無視するのは良くない」という規範が絶対的に正しい規範ではないと考えられるようになるかもしれません。このようにして、規範は状況によってその正しさが揺らぐことを生徒に学習してもらいます。
ここで、道徳の目的で記した「生徒が仕事及び私生活の双方において自身が願う人生を送るために必要となる規範」の具体例を挙げます。それは、「他人が話している時にその話を聞くのに注力し、割り込まない」という規範である。日本社会においては、他者が話している時に、その話を遮って自分の意見を話し始めるというのは、礼儀正しくない行為とみなされています。そのため、生徒はこのような規範があることを知っておいた方が良いでしょう。もちろん、礼儀知らずと思われようが自分の意見を自分のタイミングで言いたいという生徒がいれば、その考えを貫いてもいいことを生徒に伝ええます。一方で、日本人以外の人、例えばアメリカ人やドイツ人と議論をする場合には、彼らの話を途中で遮り、私の意見を話し出しても、礼儀知らずとは認識されない場合もあるかもしれません。日本社会においての規範が、日本以外の国で通じるとは限らないことも生徒に伝えておく必要があると思います。
道徳の授業の評価
最後に、道徳の授業の評価について触れておきます。
法律に関する内容に関しては、その法律内容を理解できたかどうか、またその法律の妥当性に関する意見を論理的に述べられたかどうかで評価します。前者に関しては内容を理解できていれば、後者に関しては、仮に現行の法律を否定していても、論理的であれば高評価とします。
規範に関しては、規範を生徒自身の言葉で説明し直し、かつそれに対して自身の考えを論理的に述べられるかどうかを評価します。その際、意見の中身については評価せず、論理性の部分だけを評価します。意見の内容を評価してしまうと、特定の規範という価値観の押しつけになってしまうからです。
そして、法律と規範に関する評価の双方を踏まえ、「絶対に正しいという法律や規範は存在しないということ」について理解できたかをどうかを評価します。
まとめ
道徳教育は、絶対に正しいという道徳は存在しないことを前提として実施されるべきものだと思われす。同時に、道徳教育は、生徒の将来の自己実現に貢献するものでなければならないと思います。
道徳教育に対しては本当に多種多様な考え方が存在すると思います。なので、私自身も道徳教育に関する様々な考え方を学び続ける必要があると感じています。
参考文献
『朝日新聞』 2014年2月18日朝刊 「オピニオン1」
加藤知子(2012)「『心のノート』は戦争への入り口か?―『「心」と戦争』への反論―」『人文研究論叢』No.8 pp. 53–76 星城大学
広辞苑
小森陽一 (2003)「[シンポジウム提案]子どもの心を操作してはならない-『心のノート』と「文学教育」-」『国語科教育』第54号 pp.7-8 全国大学国語教育学会
文部科学省(2009)『心のノート』廣済堂あかつき 144pp.
文部科学省(2008)『中学校学習指導要領』東山書房 239pp.